2014年12月9日火曜日

多発する労災・職業病

それと前後して、堤工場から高岡工場に応援にでていた労働者が寮で睡眠薬自殺を遂げた。遅刻した彼は「みんなに迷惑をかけたのだから謝れ」と班長に松められ、意気消沈していたとい本社施設部の班長が山のなかで首をくくったのもこのころである。QCリーダーがサークルでの発表の準備に手間取り、クルマに排気ガスをひきこんだ例もある。高岡工場寮で発見された自殺者の死体は保安課員が片付けた。パチンコ屋で、台の前に坐っていてもガラスに自殺者の顔が浮かびあかってしようがない、とその保安課貝がこぼしていたとの話も伝わっている。その夜集まった労働者たちはそんなことをつぎつぎに話しだした。障害者と自殺者についての噂は、これまでもなんどかきかされていた。しかし、その数が急速にふえていることが、わたしを暗然とさせた。

民間大企業で労災・職業病が多発し、それが私病として扱われるのはさいきんでは珍しいものではない。トヨタの場合は地域が閉鎖的であるためか、あるいはその生産第一主義の思想が末端職制をすっかり冒してしまったためか、患者への対応の仕方はまた格別である。会社側が認めた公傷だけでも、一九七九年一~九月までで二六七件、そのうち経験年数一年未満が一〇二件、三ヵ月未満のもので七一件となっている(「安全衛生ニュース」一九七九年ご一月二四日)。それらは応援者、作業内容変更者、新入者、異動者、実習生などである。

作業のスピードはすでに完成され、それに適応できない新人はハネとばされて傷つく。そのことをこの数字が示している。そして、生産のスピードアップは労働者に無理な姿勢を強いることとなり、多くの腰痛、頚肩腕症候群患者を産みだしている。ただそれを会社側が業務に起因する職業病として認定しないだけである。Aさんは、海上自衛隊の給食班に五年ほど勤務したあと、社員食堂などではたらき、七四年九月、三六歳の中途採用者として入社した。高岡工場に配属され、車軸に「ショックアブソーバー」を取りつける作業に八ヵ月ほど従事して「頚肩腕症候群」になった。

市内の医者に三週間の安静治療を命じられた。それでも休むこともできず、職制の命令で作業後クルマに乗せられて通院し、ついに動けなくなってしまった。「急性硬直椎項筋痛」という病名である。軽作業につけてはしい、と職制に要望したのだが、返ってきた返事は「会社には軽作業などない。完全に治ってから出てこい。それとも軽作業をさせてくれるところへいけ」というものだった。

医者があいだにはいって、ようやくまわされたのが「号試場」である。フェンダカバーをつくる手伝い仕事を与えられた。「号試場」には病弱者だけが集められていた。ここは、正式には存在していない職場だったという。会社幹部がまわってくると逃げたり隠れたりする。職場での忘年会も新年会もない。社内報もまわってこない。いわば流人の島である。その後、Aさんはクーラー取りつけ、蟻装ラインなどにまわされ、「腰部挫傷」、「椎間板ヘルニア」、「筋緊張完進症」などの症状をえる。

2014年11月8日土曜日

日本人の心の弱さ

例えば、比較的単純なケースですが、ある人が知人の口車にのってうっかりお金を貸してしまったところ、お金を借りた本人は行方不明になってしまった。そこで、二人の人が保証人になっていたはずだということで保証人に責任追及をした、という事件がありました。

一人の保証人は普通の「まともな人」で、自分が保証人になっていたことをすんなりと認めました。他方、もう一人は、状況証拠などから明らかに保証についての責任を負うはずであると思われるにもかかわらず、言い逃れをするばかりで積極的な説明も弁解もせず、ただ単に、頑として責任を否定するだけです。

保証責任を認めた方は、サラリーマン定年後に第二の人生を苦労しながら送っている人であり、他方、保証責任を負わないと主張する方は、自称「年商およそ百億円」の富豪でした。こういう場合、頑として否認する人に対して責任追及していくのは、なかなか難しく、苦労するというのが、おいおい詳しく説明しますが、日本の現実です。

とりもなおさず、それが難しい理由は、その人が否認しているからで、それをどうすることもできず、どうかするにも充分な手段・手続が用意されていません。ひょっとすると、どんな場合も責任を負わないで抵抗してきたからこそお金持ちになれたのかもしれず、それを「仕方がないな」と許してしまうのも、日本人の人の好さというか弱さのように感じられます。

2014年10月8日水曜日

二一世紀を祝う空騒ぎ

そんな連中を黙らせるためには、また、このいやな「世界」を渡世していくためには、残念ながら、まことに残念ながら、英語でしゃべるほか手はないのである。「ニューズウィーク」の記者は論外であるにしろ、ニュアンスというものの稀薄な汎用的言語である英語では、ニュアンスに満ち満ちた相対性を重視した日本語の「すいませーん」は、やっぱり「アイーアムーソーリー」にしか翻訳しにくいのである。逆にいうと、それほど簡略化された言語だから世界に流通したのである。むろん日本人がしゃべる英語はアメリカ語でもイングランド語でもある必要はない。そうでない方がもっとよい。日本英語でよいのだが、船橋洋一氏の「英語第二公用語論」も、くどいようだが残念ながら、説得力を持つのである。

帰国すると今度はパラリンピックをやっていた。テレビ好きの私は、ついこれも見てしまい、感動した。しかし、パラリンピックでもドーピングをする選手がいたと聞いたときは唖然とした。暗漕たる気分になったというべきだろう。何のためのパラリンピックか。その動機は「ナショナループレッシャー」ではなかろう。自分のコマーシャルーキャラクターとしての価値を高めたいなど、人生そのもののプレッシャーだろう。それが世界の多数派なのだとしたら、いっそオリンピックはドーピング解禁にすればよい。自分の命を張って競技するのだから、おもしろくないはずはない。記録だってまだまだ伸びる。私は本気でいっている。ドーピックあの強欲そうな、身もふたもないサマランチならほんとうにやりかねない。

「二一世紀を祝う空騒ぎは意外に少なくてよかった。昨年は「ミレニアム」だ、コンビュータの「二〇〇〇年問題」だと、愚者の箱となり果てた感のある民放テレビを筆頭に、うるさく騒ぎたてて不快だった。さすがに二年つづきでは疲れたのだろう。「ミレニアム」などという単語は、おおかたの日本人はそれまで知らなかったのである。だいたい非キリスト教徒には関係がない。問題は、二十一世紀がいつはじまったかということである。二十世紀がいつはじまり、いつ終ったかということである。二十世紀の第一年は明治三十四年だが、普通の日本人にとってそんなことはどうでもよかった。ただの明治三十四年にすぎなかった。それどころではなかった。

その前年、落日の清国に義和団事件が起こった。北京は扶清主義の「拳匪」(ボクサーと欧米では呼ばれた)に包囲され、城内にとり残された諸外国人は一時惨死を覚悟したが、柴五郎中佐指揮下の日本軍をはじめとする八力国連合軍がこれを救出した。一方清露国境では、アムール北岸の都市ブラゴベシチェンスクに義和団影響下の清国軍が河越しに散発的な砲撃を加えた。ロシア軍はたちまち撃退したが、同時にブラゴベシチェンスク市内に在住する中国人商人や使用人を、文字通り皆殺しにして死体をアムールに流した。その数三千とも五千ともいわれた。それまでもロシアの東進圧力と日本海への野心に強い疑惑の念を抱いていた日本人は、この事件で恐怖心と危機意識をいやがうえにも高め、対露戦やむなしという悲壮な決意を固めた。世紀末や新世紀どころではなかったとはそういうことである。

明治三十三年晩秋、ロンドンに達した夏目漱石は、排煙の厚くたちこめた空に、黄色くにじむいびつな太陽を見た。寒気のなかを足早に歩み去る、かたちもさだかではないひとびとの影を見た。一月、ビクトリア女王が没した。漱石は弔意を表するために黒いネクタイを買いに行った。日記に漱石は英文でつぎのように書いた。「偉大な女王は沈みゆく」「ネクタイを包みながら店員が、なにやら不吉な感じで二十世紀がはじまりましたねといった」漱石はロンドンでは大学に籍を置かず、自学することにした。大学という郊外の閉鎖空間ではなく、市塵中で生きることを望んだ。ただ、火曜日ごとに個人教授を受けた。先生はアイルランド人の老いたシェークスピア学者で、女中とともにべー力ー街の四階にひっそりと住んでいた。漱石は、そのクレイグという名の老学究や、転々とした下宿屋の女主人たちの表情に、家族が分解し去ったあとに露出した限りない「さびしさ」を見た。

2014年9月8日月曜日

生き残りを賭けたアメリカ進出

眼下にミシガン湖がみえる。巨大な湖がゆったりと雲の影を浮かべている。湖岸に長いハイウェイが走っている。カナダとの国境に面したデトロイト市のメトロポリタン空港はまもなくである。成田デトロイト間の直行便であるノースウェスト機は、ややくたびれた中古機だった。機内は日本人客かほとんどで、通路をはさんだ隣席の女性たちはナイヤガラの滝の見物にむかう三十数名の団体客である。一九八三年三月、はじめてデトロイトを訪問したとき、この直行便はなかった。だからいったんニューヨークにむかい、そこから乗り換えてやってきたのだが、このごく短いあいだにも便利になったものだ。ナイヤガラの滝の見物用というよりは、日本の自動車工場の進出と無関係でないのかもしれない。

この四年半のあいだになにが変わったかといえば、アメリカへの自動車メーカーの進出ラッシュである。八三年三月、はじめてデトロイトをたずねたとき、アメリカに進出していたのは、その四ヵ月前からオハイオ州で操業をはしめた本田技研だけだったが、その後、日産がテネシー州でトラックの生産をはじめたのにひきつづいて、トヨタがGM(ゼネラルーモーターズ)との合弁企業NUMMIをつくり、本田、日産が第二ラインを増設、マツダ、トヨタの単独工場、三菱、いす八富士などの合弁進出も計画されている。投資総額は約八〇〇〇億円。一九九〇年にはカナダをふくめて二〇〇万台、雇用人員は二万四〇〇〇名と推定されている。子会社もふくめた自動車メーカーの「一族郎党」がアメリカに上陸するなど、ついこのあいだまでは考えられなかった。

アメリカは自動車と同義語でもあり、GM、フォード、クライスラーなどに日本のクルマはたちうちできるわけもなく、ましてその本場に乗りこんで生産するなど想像を絶することだった。貿易摩擦の緩和のためと円高に対処して、自動車各社と系列メーカーのアメリカ進出が急速にすすめられることになったのだが、その実情を視察するのが今回の目的で、労働ペンクラブのアメリカ視察に便乗しての旅である。

やがて、なだらかな草原と林がみえてきた。デトロイト郊外である。成田を発ってほぼ一二時間で、ノースウエスト機は無事到着した。市街地にむかう道の右側にたつ、タイヤ会社の巨大なタイヤの実物が眼をそばだたせる。ユニロイヤルのものだ。つづいて、グッドイヤーの看板。これはデトロイトのクルマの生産台数が表示されていることでよく知られている。八月二四日(八七年)、午後五時すぎ(日本時間)で、四五八万こ二八四台だった。

デトロイトのダウンタウンには、空地が目立つ。かつてみた廃屋が撤去され、駐車場にされたりしている。着いた日は日曜日だったのでことさら人通りはなく、閑散たるものだった。ときたま歩いているのはマイノリティだけで、白人の比率は以前よりもさらに減ったようである。デトロイトタイガースの写真を飾っているちいさなバーにはいってみた。まだ日が沈んだわけではないのだが、ビールを飲みはじめていると、隣に坐った年配の労働者が話しかけてきた。「ジャップとは、もう戦争したくないね」

2014年8月11日月曜日

中小企業倒産防止政策

こうした状況から世間では「ダム理論」なるものが横行した。「今は企業が利益を上げ資金を蓄えている段階。いわばダムに水がたまる状況だ。やがてこれが一定水準に達すれば、ダムから水が溢れるように、企業の設備投資が増え、雇用と支払い賃金も上がり、本格的な好景気になる」というのである。二〇〇〇年八月、日本銀行がゼロ金利政策を解除したのも、こんな楽観的期待からである。

しかし、当時、経済企画庁長官として経済の舵取り役を務めていた私は、そんな楽観はしていなかった。「企業利益は増加してダムに水が貯まる状況にはなっているが、これが設備投資や雇用増加となって奔るまでには体質的な改革が必要だ。ダムの底には、不良債権と過剰設備という二つの大穴があいているのを忘れてはならない。むしろ、今警戒すべきは、二〇〇〇年末から二〇〇一年にかけて『二番底』に入ることだ」。私はそういい続けた。

小渕内閣が緊急非常の対策として採った中小企業倒産防止政策や大型の需要創造(補正予算)は、可及的速やかにはずさなければならない。その際には必ず弱い産業、弱い企業に歪みが生じ、景気の下落になる。これがいわゆる「二番底」だ。二〇〇〇年後半から二〇〇一年にかけてそれが現われることを、私は予測していた。だから、森内閣では、日銀のゼロ金利解除にも反対したし、IT振興を中心とする二〇〇〇年度補正予算にも熱を入れた。

不幸にして私の悲観的予測は的中した。二〇〇〇年度も後半になると景気は後退、二〇〇一年に入ると、はっきりと「二番底」現象が現われた。これに加えて、二〇〇一年四月に発足した小泉内閣は、「(構造)改革なくして(景気)回復なし」をキャッチフレーズに、引き締め型の財政政策を採ったため、景気は一段と冷却、二〇〇二年初めには失業率は五・四%に上昇、日経平均株価は一万円を大きく割り込んでしまった。また、企業の利益も大幅に減少、二〇〇二年三月期の決算では、東京証券市場上場会社全体では赤字になった。実に厳しい「二番底」である。

バブル景気の崩壊以来十余年、政府は様々な景気対策を行ったが、未だに十分な効果を上げるには至っていない。その原因の一つは、細かくアクセル(景気振興策)とブレーキ(引き締め政策)とを切り換えたことにある。机上の数字と手続きにこだわる官僚主導の欠点である。アクセルとブレーキをしばしば踏み換えるのは、燃費の悪い運転方法だ。経済政策でも同様である。このため、日本経済は、景気回復の加速が付かないまま、財政資金という燃料ばかりを使い果たしている。七〇〇兆円に近い国公債残高が燃費の悪さの証である。

2014年7月19日土曜日

通貨価値の番人と信用秩序の番人

相場変動が急激で介入を要する場合のうち、国内景況の過熱が主因で経常収支の赤字が増大し、円安が急速に進行している場合に、外貨の売介入(円貨の買介入)を行うことは、円相場の下落を防ぐと同時に、国内の過剰流動性を吸収することになるから、円の対外価値の維持と対内価値の維持との間に矛盾が生じない。しかし、国内にインフレの懸念がないわけではないのに円高が過度に進行した場合、外貨の買介入(円貨の売介入)を行って、円の対外価値の安定を優先すべきか、それとも介入を差し控えて円の対内価値の安定を重視すべきかは、その時の状況にもよるが、為替相場政策上の、また金融政策上の難問である。

最近、日銀首脳部の発言の中で、「為替相場の変動によっては金融政策は左右されない」「為替相場の変動にぱもっぱら介入で対処する」という趣旨が繰り返されているが、右のごとく、中央銀行は為替相場の変動によって影響されるだげでなく、介入でこれに応じれば、それ自体金融市場で一つの操作を実施したと同じことになる。右の発言は、事実の誤認か、相場に影響されたくないという願望の表明か、そのいずれかであろう。

ドイツやスイスの中央銀行は、通貨価値の番人であるが、建前上は信用秩序の番人ではないといわれている。したがって、銀行監督の役割もなく、「最終の貸手」でもない。七四年のヘルシュタット事件のごとく、民間金融機関を支援しないこともありうるが、反面、通貨価値の番人として中央銀行の独立性を誇っているようにもみえる。

これに反し、わが国や英米の中央銀行は、通貨価値の番人と信用秩序の番人との二つの役割を有している。イングランド銀行の場合、九四年の機構改革で、行内がマネタリースタビリティ(通貨価値の安定)担当の部門とファイナソシャルースタビリティ(信用秩序の安定)担当の部門に二分されている。しかし、極端な場合、この二つの機能は相矛盾しうる。たとえば、通貨価値安定のためあまりにきびしい金融引締策を実行し、これによって民間金融機関に困難が生じた場合、あまりにもしばしば「最終の貸手」としてこれを支援し、信用秩序の維持に努めると、金融が過度に緩和し、通貨価値の番人としての役割が損なわれる可能性がありうる。

この矛盾を回避するためには、金融政策面では、緩和の場合も引締めの場合も早め早めに機動的な政策運営を行って、インフレの山、デフレの谷を大きくしないように努めること、また銀行監督面では、緩和時に経営が放漫化して引締時に困難が生ずることがないよう金融機関を指導することが必要である。

2014年7月5日土曜日

冷戦型思考との決別

何度か指摘してきたように、日本経済はさながら「モラルなき資本主義」といった様相を呈している。不良債権問題における経営者のモラルハザード、日銀によるCP引受け、あるいは相変わらすのバラマキ型公共事業政策の継続と約二九兆円にまで膨らんだ地方交付税特別会計の「隠れ借金」、いずれも本格的な景気回復がなければ、日本の経済システムの根幹を蝕んでゆきかねない。本源的生産要素市場におけるセーフティーネットの「解体」を放置していることが、こうした状況を作り出す原因となっている。

冷戦型の二分法的思考の枠組みから抜け出られずに、規制緩和と政府介入、あるいは「小さな政府」と「大きな政府」の間で、ただ振り子のように振れているだけでは、泥沼にはまってゆくだけだろう。本源的生産要素市場の安定性を取り戻すには、何よりも将来不安を取り除き。崩れつつある制度の信認を回復させることが優先されねばならない。

セーフティーネットの再構築を起点とする制度改革が成功するかどうかは、いかにして歴史的な公共的課題に対応して、人々の自己決定権を高めることができるか否かという点にかかっている。もちろん市場原理主義はこの条件を満たすことはできない。規制緩和や「小さな政府」を目指す政策を追求すればするほど、人々は自己決定の領域を失ってしまうからである。強調したように、〈協力の領域〉が組み込まれてはじめて〈競争の領域〉も安定的に機能する。言い換えるなら、人々が自己決定権を確保するには、社会的共同性に基づく制度やルールが不可欠であることを意味する。

つまり、セーフティーネットと連結する形で社会的に公正な制度やルールが存在して、はじめて人間は、それを目安に自分の人生設計=主体的選択をなしうる。そのためには、市場や社会の歴史的変化に応じて、絶えず自己決定権を高めるために社会的共同性に基づいてセーフティーネットを張り替え、それに連動して制度やルールを変更してゆかねばならない。

もちろん、こうした考え方は明確に中央計画型社会主義も拒絶する。理由は簡単だ。それが、権力の肥大化によって人々の自己決定権を抑圧する体系だからである。つまり、セーフティーネットに連結する制度改革という知的戦略は、完全競争状態をユートピアとする市場原理主義でもなく、市場の廃絶をユートピアとする中央計画型社会主義でもない。

2014年6月20日金曜日

ムーディーズの格付けの正否は今後の課題

日本の格付け機関も、「ジャパンースタンダード」の「損失後利回り曲線」を前提にして格付けを行っているので、「ジャパンースタンダード」の「発行条件曲線」と対称になっており、理論的に正しい格付けを行ってきたといえる。したがって、米国と日本の格付け機関はそれぞれ異なる「スタンダード」を取っているために格付け結果が異なってくるが、理論的にはどちらも正しい格付けを行っていることになる。

格付けは将来のデフォルド率を見通して行うわけであるから、今後、日本のデフォルト率が米国並みになるとすれば、現在行っている米国の格付け方式「アンプロースタングート」は正しいということになる。一方、日本国内では今後も社債についてはデフォルトが発生しないような市場運営が行われていくとすれば、「ジャパンースタンダード」による格付けが正しいことになる。米国のスタンダードがやがて世界を席巻することになれば、それが「クローバルーズタングート」になり、日本の「ジャパンースタンダード」はローカル基準になるであろう。あるいは、ユーロ地域やアジア地域などが独自のスタンダードを切り開いていくことになれば、「アンプロースタングート」も一つのローカル基準として受け入れられることになるであろう。

以上のことからわかるように、ムーディーズが日本企業の格付けを正しく行っているというためには、今後、日本の社債市場のデフォルト発生率が「アングロースタンダード」の高さに上昇することが必要である。これまでの日本の社債については、適債基準や償還についての社債優先の考え方があって、ほとんどデフォルトが発生しないように運営されてきた。日本の格付け機関はそのような実態を反映してこれまで格付けを行ってきた。しかし、日米円・ドル委員会による金融市場の規制緩和や市場経済化の進展、ビッグバンの実施などによって日本の企業環境は急速に変化しているので、今後も低いデフォルト率を維持できるかどうかはわからない。

図3に示したように、ムーディーズは一九八八年に日本企業三七社を格付けした。八八年の欄にあげた十年デフォルト率は、格付け後十年間のそれぞれの格の平均デフォルト率で「アングロースタンダード」、つまりアメリカにおけるデフォルトの数値である。デフォルトが少ないという当時の日本の実状を反映して、すべてがBaa以上の投資適格の範躊に入っている。十年後の今年一九九八年には、Baa債券は平均デフォルト率が五・〇二%であるので一〇〇件のうち五件がデフォルトになるはずであるが、格付け件数が少ない(三件)ので、統計的にこの格付けが正しかったかどうかを判定することはできない。

一九九三年にムーディーズは一九七社の日本企業を格付けした。五年デフォルト率は格付け後五年間の平均デフォルト率を表し、「アンプロースタングート」で表示している。Baaの五年平均デフォルト率は二・〇六%(十年デフォルト率より期間が短いのでデフォルト率も低くなっている)であるから、六四件のうち一・三件のデフォルトが発生する確率である。同様に、Baの平均デフォルト率は一一・五一%なので、二六件のうち三件のデフォルトが九八年までに発生すれば格付けが正しかったといえるであろう。

2014年6月6日金曜日

節酒と禁煙

節酒の効果を検討した十〇グループの研究をまとめますと、一日のエタノール摂取量を少なくすると、最高血圧で三・六~八、最低血圧で、メーター水銀の降圧効果が認められています。米国高無圧合同委員会では一日にエタノール三〇グラム以下の摂取を勧めており、血圧以外に問題がなければその程度が適量と考えられます。具体的には、ビールであれば大びん一本、日本酒なら一合、ウイスキーならシングル三杯ぐらいとなります。またHDL(善果)コレステロールの濃度を上げる作用があり、ストレスの解消にも役立つ点があるのではないかといわれています。酒は生活の潤滑油にもなり、それを厳重に禁止する理由はどこにもありません。

アルコールを飲んだ直後には、血管が拡張し、むしろ血圧が上がります。飲酒後の入浴はきびしい禁止事項になっていますが、これは寒い風呂場に入って血圧か上がることだけでなく、飲酒によって拡張した血管がお湯に入ってさらに拡張して血圧か下がりすぎて事故につながる危険があったからです。飲んだ直後は血圧が下がりますが、習慣的に日本酒三合程度を飲み続けていると。長期的には血圧の上昇に結びつくという成績があります。なぜそうなるかは十分に分かっていません。

喫煙は長期的にみると心筋梗塞、脳卒中などの循環器病にとっては大敵です。欧米では高血圧症、高コレステロール血症、喫煙が心臓病の三大危険因子にあげられていますが、日本の状況もそれに段々近づきつつあります。ヨーロとハでは高血圧症患者を降圧薬を用いて治療した場合、心臓病の予防効果が非喫煙者のみ認められ、喫煙者には認められなかったという報告があります。喫煙している高血圧者にとっては、降圧薬をのむよりも禁煙のほうがより重要だということになります。

嗜好品のなかでコーヒーと高血圧の関係を聞かれることもしばしばです。コーヒーはカフェインをふくみ、血圧を少し上げるという報告がいくつかありますが、高血圧者はコーヒーを飲むべきでないと指導している専門家はいません。あまり多量に飲むのはひかえたほうがいいと思いますが、一日三杯程度なら問題はありません。

2014年5月23日金曜日

降圧剤投与か開始

脳梗塞後も喫煙と大量飲酒(男性・初診時五七歳)Pさん(身長一六五センチ、体重七四キロ)は、一九八二年頃(五〇歳)から血圧か高い(六〇/一〇〇前後)と言われていましたが、無症状なので放置しました。外食が多くビールは二本、タバコを二〇本吸い、運動らしきことは全くしない、というのか平均的生活でした。八九年九月(五七歳)、胃の不快感があり当科を受診、胃腸薬の投薬を受けました。この時高血圧(一六八/一〇四)も治療するよう指導されました。

一二月血圧一七二/一一〇、階段を上る時の息切れがひどいと訴え、降圧剤投与か開始されました。九〇年四月朝、ろれつが回らない、言葉の端切れか悪くなったのに気がつき、翌日当科受診、血圧一九二/一一四、頭部CT検査では異常所見がなかったのですが、脳梗塞の疑いで入院となりました。二日後に頭部CTを再検査、左脳梗塞と診断しました。退院後禁酒。禁煙。しかし三ヶ月後には酒、タバコともに再開。九一年七月二四日、再びろれつが回らなくなり、右下肢に脱力感が出現し二回目の入院。

頭部CTで新しい左脳梗塞と診断しました。その後五年間は、降圧剤と血栓症予防のための抗凝固剤投与により安定した状態が続きました。当然のごとくタバコ、酒ともにやりはじめ、だんだん量が増えました。九六年五月頃より坂を上る時に胸が苦しいと訴えるようになりました。同年八月に三回目の入院、冠状動脈造影検査を行ないました。冠状動脈の末梢には高度の狭窄があるが外科的治療、PTCAの必要まではなく、投薬にて経過観察をすべきである、との診断でした。

九八年三月、起床時から言葉か出にくい、頭痛がすると訴え四回目の入院、MRI検査で多発性脳梗塞と診断しました。九九年二月(六七歳)、家人から、意味不明な言動かあり、右顔面に麻庫があるとの連絡があり、救急車で五回目の入院、MRI検査で脳出血と診断しました。二週間程軽い意識傷害か続きましたが、幸い完全に回復し退院しました。この症例は高血圧を放置していただけでなく、脳梗塞の発症後も喫煙と大量飲酒を続けていました。このような悪い生活習慣が続くと、脳血管に高度な病変か多発するばかりでなく、冠状動脈にも重大な病変が起こり、生命にかかわるような事態に至ることを証明しています。

2014年5月2日金曜日

しばしば無口になる

「私」は「自分」を直接には知らない、と書いている。だが読者は、「自分」とは「私」なり、つまり、手記の主人公「自分」は、「私」すなわち太宰治だと承知でこの小説を読む。太宰はもちろん、それを百も承知で、直接には知らない狂人の手記のかたちにしている。大岡昇平さん(大岡さんには生前誓咳に接しているので、さんづけで書く。)も同工の作法で「野火」という「私」が主人公の作品を書いている。この手記を書いたのは、東京郊外の精神病院に入院している患者というかたちにしている。この「私」は、、いわゆる狂人ではない、軽度の記憶喪失者である。

「私」は、兵上としてフィリピンの山中を放浪していて、ある時期記憶を失う。記憶を取り戻したときには、米軍の野戦病院に収容されていた。その後「私」は帰国して精神病院に入院して、医師に薦められて手記を書く。「私」は、山中放浪から米軍に収容されるいっときの喪失期間以前と以後については記憶を喪失していない。だから、作中の医師の言うように、「小説みたい」な手記が、みごとに書けるわけだが、それにしても、太宰治にしろ、大岡さんにしろ、「私」が主人公の小説を書くのに、なぜ、狂人だの、記憶喪失患者だのを登場させてひねってみせなければならなかったのだろうか。

「私」が主人公の小説と言っても、もちろん小説中の「私」は、そのまま作者そのものではない。私は、ひねったりはいたしません、一途に、ありのままに、正直に自分を語ってみようと思います、そういう気持姿勢で書いた私小説の「私」も、それがそのまま作者であるということは、ありえない。けれども作者には、できるだけ、ひねりや作意を押えようと試みる者あり、一ひねりも二ひねりもした表現をしようとする者あり、である。

太宰治や大岡昇平さんのひねりは、そうすることの内底には、作者の自身のテレとの格闘もあったのではないか、と私は想像する。 大岡昇平さんも、恥の意識過剰の人だが、太宰治ぐらい、それを言葉にも出し、ヒイヒイと愚痴っぽく、派手に書いた作家はいない。それをろくに□に出さず、しかし、過剰に意識している人もいるだろう。助平は、しばしば無口になりがちである。

うっかり□にすると、その言葉だけで興奮してしまう自分を知っていて、それがこわいので、せめて寡黙に自分を閉じ込めてバランスを取るのである。その逆の方法もある。助平は、やらだ毒舌に、助平な言葉を口にし、助平なことを思い続ければ、不感症になる。そのようにして助平から解放される。恥に関して、太宰治は、後者の方法で、逃げ出そうとしたのである。

2014年4月17日木曜日

糖尿病患者は免疫力が落ちる

靴擦れがきっかけで運動習慣が崩れた悲劇(男性・初診時四八歳)Lさんは四〇歳の時に集団検診で尿に糖が出ていることを指摘され.四二歳で糖尿病と診断されました。近医に二週間程入院し、血精の自己測定法を習い、少量のインスリン注射による治療が始まりました。ニヶ月ほどインスリン注射を行いましたが、自己測定した血糖値が低かったので自己判断でインスリンを中止し、しっかり運動することで血糖コントロールを行いました。水泳か好きなので暇をみつけては泳いでいました。

四六歳で左足静脈瘤の手術を行いました。手術直後、左足をかばって歩いたために右足底部に靴擦れができ、徐々に大きくなりました。糖尿病患者は免疫力が落ち、靴擦れなどができると治りにくいと教育されていましたので、細菌感染が心配で水泳をやめ、靴擦れが痛いので歩く量も少なくなり、運動をするという生活習慣が完全に崩れました。靴擦れが心配なので病院を受診しなくてはと思っている矢先に転勤になり、転勤してすぐに入院にでもなったら生徒や同僚に申し訳ないと思い受診を取りやめました。

運動量が極端におちているにもかかわらず、奥さんの手づくりケーキを間食するという悪い癖がつきました。念入りに消毒しているにもかかわらず靴擦れは大きく、深い傷になっていきました。傷が深くなればなるほど長期入院と診断されることが恐くて病院を受診できなくなり、家族や友人の勧めも拒否して二年間消毒だけで頑張りました。運動はしない(出来ない)、間食はするという生活では靴擦れかよくなるはずもなく、担任していた生徒の卒業式の翌日(九九年三月、四八歳時)当科を受診し、入院となりました。傷は三×四センチ、骨が見えるほど深く、血糖値は五〇〇以上になっていました。

早速インスリンによる糖尿病の治療と深い傷に対する治療を併行して行いました。幸い傷が深い割には細菌感染がなく、順調に良くなりました。靴擦れというちょっとしたきっかけで運動という生活習慣か完全に崩れ、そこにケーキの間食という悪い食習慣が加わったために糖尿病か悪化し、足の切断一歩手前までいってしまった症例です。周囲の人達への過剰な気配りが受診を遅くしていますが、入院時に教育された「傷は念入りに消毒するように」という指示を忠実に守っていたために傷に細菌感染がなく、足の切断をまぬがれた幸運な例だともいえます。