2014年9月8日月曜日

生き残りを賭けたアメリカ進出

眼下にミシガン湖がみえる。巨大な湖がゆったりと雲の影を浮かべている。湖岸に長いハイウェイが走っている。カナダとの国境に面したデトロイト市のメトロポリタン空港はまもなくである。成田デトロイト間の直行便であるノースウェスト機は、ややくたびれた中古機だった。機内は日本人客かほとんどで、通路をはさんだ隣席の女性たちはナイヤガラの滝の見物にむかう三十数名の団体客である。一九八三年三月、はじめてデトロイトを訪問したとき、この直行便はなかった。だからいったんニューヨークにむかい、そこから乗り換えてやってきたのだが、このごく短いあいだにも便利になったものだ。ナイヤガラの滝の見物用というよりは、日本の自動車工場の進出と無関係でないのかもしれない。

この四年半のあいだになにが変わったかといえば、アメリカへの自動車メーカーの進出ラッシュである。八三年三月、はじめてデトロイトをたずねたとき、アメリカに進出していたのは、その四ヵ月前からオハイオ州で操業をはしめた本田技研だけだったが、その後、日産がテネシー州でトラックの生産をはじめたのにひきつづいて、トヨタがGM(ゼネラルーモーターズ)との合弁企業NUMMIをつくり、本田、日産が第二ラインを増設、マツダ、トヨタの単独工場、三菱、いす八富士などの合弁進出も計画されている。投資総額は約八〇〇〇億円。一九九〇年にはカナダをふくめて二〇〇万台、雇用人員は二万四〇〇〇名と推定されている。子会社もふくめた自動車メーカーの「一族郎党」がアメリカに上陸するなど、ついこのあいだまでは考えられなかった。

アメリカは自動車と同義語でもあり、GM、フォード、クライスラーなどに日本のクルマはたちうちできるわけもなく、ましてその本場に乗りこんで生産するなど想像を絶することだった。貿易摩擦の緩和のためと円高に対処して、自動車各社と系列メーカーのアメリカ進出が急速にすすめられることになったのだが、その実情を視察するのが今回の目的で、労働ペンクラブのアメリカ視察に便乗しての旅である。

やがて、なだらかな草原と林がみえてきた。デトロイト郊外である。成田を発ってほぼ一二時間で、ノースウエスト機は無事到着した。市街地にむかう道の右側にたつ、タイヤ会社の巨大なタイヤの実物が眼をそばだたせる。ユニロイヤルのものだ。つづいて、グッドイヤーの看板。これはデトロイトのクルマの生産台数が表示されていることでよく知られている。八月二四日(八七年)、午後五時すぎ(日本時間)で、四五八万こ二八四台だった。

デトロイトのダウンタウンには、空地が目立つ。かつてみた廃屋が撤去され、駐車場にされたりしている。着いた日は日曜日だったのでことさら人通りはなく、閑散たるものだった。ときたま歩いているのはマイノリティだけで、白人の比率は以前よりもさらに減ったようである。デトロイトタイガースの写真を飾っているちいさなバーにはいってみた。まだ日が沈んだわけではないのだが、ビールを飲みはじめていると、隣に坐った年配の労働者が話しかけてきた。「ジャップとは、もう戦争したくないね」