2012年9月3日月曜日

生命的感情の層のうごき

うれいの人はこうして生命的感情の層のうごきがとどこおっているために、ものをみても人に向ってもいきいきした感付加わきでない。風物は美しさがなくねむたげで、自分からはなれて遠くへしりぞいてしまった風にみえ、人に対しては愛も憎しみもわかない。

ただわずらわしさだけがある。なにもかもうるおいがなくて死んだように見える。これが彼らの訴える「無感付」である。ところ、か生命的感情の上に位する心情的感情の方は、よどんでうごかぬこの武木感情をたんとかしてひきたたせようとつとめ、景色を美しく思おう、人にもっと活発にはたらきかけよう、さえた新鮮な気分になろう、と自分にいってきかせるのだが、もともと自分が生命的感情に背負われているのだからどうしようもない。「私はなにも感じられなくなってしまった」というなげきは、そうしたどうにもならぬ心情的感情のなげきにほかならない。

しおれた感情

くるしみは渇望があるところに必然的に生まれるもので、感覚的欲望、生命への執着はもとより、自分のいのちを断ちたいという断絶欲も、渇望のうちにかぞえられるものである以上、やはりくるしみのだわとなる。宗教が指図するように、なやみからまぬがれるためには、私どもの欲望をすてなければならぬ。欲望をすてるというより、「すてようとする欲望」さえも消してしまわなければならぬ。こうして空々漠々の境地にはいれれば、文字どおりの無感情の状態となるわけである。

「自分は夢のなかにいるような、水蒸気のなかにいるような『かるい』気持でいることが多い。存在意識がうすい。頭のなかではっきりした結諭もなし、どちらからおしてもつかまえどこがないし、感覚からも思考からも感情からも無にちかくなっている。大地をふまえて立っている感じがしない。無意識のときが一日に何回もある。耳に音はきこえているが、きこえていると気づかず、なんの想念もなく、空虚に時間がたっていく。時間がなかれているという意識もない」。

こうしてよみがえった過去は、苦しい現在とちがって「楽しかった昔」であることもあるが、重芳しい気分にある人に再生した過去は、過去までが重苦しい内容でみたされ、「あやまちつづきの生涯にという色あいをおびている方がふつうである。あのときこんなあやまちさえしなかったら悪いことはさけられたのだが、とくやみながら、一度起ったことはかえられぬという吽の法則をくつがえそうととりくみ、どうしてあのときこうしなかったのかと無益な努力をくりかえしくりかえして疲れてしまう。総じて過去かありありと心に映るようなときは、心がかげって、日のささぬ休み場所をさがしているときである。元来過去はくらい世界なのだから休むのにはいたってふさわしいわけであろう。

こうしたうれいの人は「感情がなくなってしまったとなげく感情をもつ」奇妙な矛盾したありさまをみせることがある。ヤスペルスのことぱでここを表現すれば、「この人々はよろこびも苦痛もひとつも感じられないと訴える。自分の身内の人に向っても少しも愛着がおこらず、何物にも無関心だと感じる。自分は荒涼として、空虚で、むくろで、生きるよろこびが全然ないと感じる。私のなかには何もない、私は氷のかけらみたいにひえて静止してしまった。何もかも氷ってしまったようだと訴える。彼らは自分で感じたこの無感情を途方もなく苦しむ」。矛盾したこのなげきは「感情なさの感じ」とよばれてそのままに記録されているか、なぜこんなこと、かおこるのか、わけは多分こうであろう。

憂鬱状態ではつねに悲哀の情がつきまとうとはいっても、この悲哀の底にはあらゆる感情がよどんだどろりとした力なさか存在する。くりかえしになるが、憂節状態とはとりもなおさず、私どもの心の底でもえている原動力である生命的感情の力がさがることである。生命的感情、がさがれば、私どもの感情はすべて根もとからしおれてしまう。いきいきした、さっぱりした、新鮮な気分。そうした基木感情はなえて、どんよりとくもった、よどんだ、重苦しい心にかわってしまうのである。このところはあの「感情の地層」をもう一度思いだしてみればよい。