2015年12月8日火曜日

巡航ミサイル・トマホークの威力

軍事史上で一つの時代の終わりを明確に示しだのは、戦艦の退場であった。湾岸戦争では、アメリカに残る最後の門隻の戦艦のうち、ミズーリとウィスコンシンの二隻が参加した。射程距離三六キロの一六インチ砲が三〇〇発の弾丸を撃ち込んだと言われるが、それよりもテレビなどで宣伝されたのは、巡航ミサイルートマホークが開戦当日から、歴史上初めて二隻の戦艦から発射されたことであった。

この巡航ミサイルと航空機からレーダー発信源に撃ち込まれるミサイルとによって、イラクの対空レーダー基地の九五%は破壊されたと、パウエル統合参謀本部議長は、九三年一月二三日に発表した。一九九一年二月二七目、イラクは降服し、クウェートからの無条件撤退を要求した国連安保理事会の決議を受け入れた。ベトナム戦争とは違って、イラク車にはさはどの戦意は見られなかった。かりにあったとしても、砂漠地帯では身を隠すすべがなく、航空機と偵察衛星とによって軍事行動は丸見えで、ゲリラ戦のやりようもない。

一方アメリカは、戦費についてはサウジアラビアやドイツや日本などの協力があることを条件として、議会を説得しなければならなかった。日本の九〇億ドルを含めて、アメリカへの協力を約束した総額は約五四五億ドルに達し、全戦費はこれで賄われた。また湾岸戦争で、アメリカの国防産業が潤ったわけでもない。パトリオットーシステムを納人したレイセオンを除けば、兵器の受注で活況を呈した企業はほとんどなかった。

アメリカの国内経済にも新しい世界がひらけてきた。その第一はアメリカの金融関係の法律がしっかりと作り直されて、きびしく実行され、金融機関の信用が回復し、その経営力が立ち直ったことである。一九八〇年代のアメリカの金融機関の経営は、決して健全と言えるものではなかった。最近のアメリカの金融機関の強さからは想像できないような状態が続いていたのである。

2015年11月9日月曜日

実験心理学で証明された事実

昔から「あばたもえくぼ」などといわれたように、私たちは実際の刺激を、そのあるがままの性質でではなしに、自分がそう見たいと思う性質で見てしまうことがある。またある場合には、見たくない刺激は、眼前にあっても見ないことがある。この面の研究は少しおくれていたが、やっと1950年代になって世界的に盛んとなり、「あばたもえくぼ」の世間的常識が、実験心理学でも証明されることになった。たとえば次のような実験である。

被験者は食欲盛りのアメリカの若い水兵で、彼らは三つのグループに分けられて知覚のテストが施行された。これらのグループのうち一つは、このテストを食後1時間後に受け、ほかの一つは4時間後、残りの一つは食後16時間後に受けた。テストの方法は、あいまいな形の図形を瞬間的にスクリーン上に投影し、それが何であったかをいわせるというものである。スクリーン上には実際には雲形のもやもやしたものが呈示されるだけなのであるが、実験者は「机の上にあるのは何でしょうか」とか、「絵の中の人たちは何をしていますか」などの暗示を与え、被験者が雲形のものを何に見るか調べたのである。

2015年10月8日木曜日

アジア通貨危機

われわれは、いったいどのような精神態度をもって世界を認識してきたのだろうか。大正デモクラシーから戦後に至るまで、マルクス主義が多くの人びとの心を捉えたのは、資本主義という総体を丸ごと否定してみせたマルクスの手法が、明治期以降抱き続けたわれわれ日本人の西欧への劣等感を吹き飛ばしてくれるものだったからかもしれない。

冷戦崩壊でマルクス理論の魅力が衰えたとはいえ、アメリカ流民主主義に世界が収斂しつつあるという論理に、世界が納得したのかどうかは疑問である。むしろ、政治イデオロギーの終焉に、民族対立の激化を悲観的に認識したサミュエルーハンチントンの『文明の衝突』や、西欧にとっての非西欧の異質性を強調する、エドワードーサイードの『オリエンタリズム』が話題を集め、非西欧のアジアやイスラムが、アカデミズムでもジャーナリズムでも関心を惹きつけている。

そのような、手探りを続ける知的状況は、現実の厳しい政治経済事情を反映するものである。ベルリンの壁の崩壊が、市場メカニズムの効率性を信奉するシカゴ学派の勝利を認識させる一方で、旧ユーゴスラヴィアでは、民族と宗教との骨肉相争う内戦(ユーゴスラヴィア継承戦争)を生んだ。旧ソ連邦解体は、イスラム勢力の台頭という新たな世界地図を現出し、注目を浴びた「アジアの奇跡」は「アジア通貨危機」に逆転した。

一方の日本はどうだろうか。話題を集めた半藤一利著『ノモンハンの夏』は、ノモンハンでの戦略失敗を認めず、無責任を決め込んだ旧陸軍首脳を描いたものである。これは、旧満州に守るべき民衆を置き去りにして、自らはさっさと逃げ帰った旧日本帝国陸軍の体質につながっていく。そして、同時に、権限だけに固執しながら、責任感からは遠いという意味で、今日の日本の、大蔵エリート官僚を彷彿とさせるものがある。

現在、日本社会はすっかり自信や余裕を失っている。一流企業ですら倒産する可能性におびえ、雇用不安が高まり、人びとは消費を手控え、その結果ますます不況が蔓延するという悪循環に陥っている。個々の企業コストを削減するために、多くの企業が「人減らし」を行えば行うほど、社会全体としては消費が低迷し、その結果ますます不況が長引くという、いわば「合成の誤謬」が起きている。

そうこうするうちに、アジア通貨危機でも日本の金融システム不安においても、主要な政策シナリオを書くのは、自国の政治家や官僚諸氏よりも、アメリカの政治家やアメリカのエコノミスト、あるいはその強い影響下にあるIMF(国際通貨基金)や世界銀行の国際官僚といった状況が続いている。九八年六月、日本にやってきた米財務副長官のローレンスーサマーズは政治家と直談判して、政策を講じさせた。さらに九八年一〇月にワシントンで開かれたG7(七力国蔵相・中央銀行総裁会議)の共同声明でも、その半分が日本問題で占められた。アメリカをはじめ海外に政策を指導してもらう羽目に陥った日本の「屈辱」をいったいどう考えるべきだろうか。

2015年9月8日火曜日

アジアの工業化は製造業の輸出産業による

表に示すのは、金・外貨準備高である。これをみると、一九九二年以降、台湾の外貨準備高が米国を抜いていることがわかる。小さな島にすぎない台湾が所有している外貨が、大陸にある大国、米国より多いというのは、常識的なイメージにはそぐわない。しかし、これが現実である。表の数字は、アジアNIESの経済発展パターンを象徴的に示している。

それは、輸出産業の成長によって経済が発展したという事実である。台湾がパソコンの生産で世界一だと述べたが、それは台湾の国内需要向けの生産ではなく、輸出用だ。その結果が、外貨準備高におげる驚くべき数字となって現われているのである。韓国の鉄鋼、自動車、造船産業なども、輸出産業だ。NIESの経済発展は、製造業の輸出産業の賜物なのである。いうまでもなく、これは、日本と同じ発展パターンである。

アセアンと中国も、八〇年代から九〇年代にかけて、経済的停滞から脱却し、工業化へのテイクオフに成功した。「アセアン」(ASEAN)とは、「東南アジア諸国連合」であり、ここでは加盟国のうち、とくにタイ、マレーシア、インドネシアを指す。ここで注目すべきことは、これら諸国の工業化も、NIESと同じパターンのものであることだ。つまり、輸出中心の製造業の大量生産分野の発展によって経済成長を実現しているのである。したがって、アジア諸国は、すべて日本の工業化と同じパターンをたどっていることになる。製造業の大量生産分野の輸出産業による経済発展というのは、日本のお家芸だったものだ。それと同じ経済活動を、この一〇年ほどの間に、アジア諸国ができるようになったのである。

では、日本と同じ経済発展のパターンが、なぜアジア諸国に波及したのだろうか?アセアンや中国の工業化の原因は、日本にある。つまり、八〇年代の後半に円高が急伸したとき、それに対応するために、日本企業が生産拠点を東南アジアに移したためだ(日本以外の国からも投資が行なわれた)。この基本的なメカニズムは、つぎのようなものだ。ある国が輸出を伸ばすと、その国の通貨が強くなる。これはドル表示での賃金の上昇を意味するから、輸出産業の国際競争力が低下する。そこで、生産活動が労働力の豊富な地域に移るのである。        

これは、経済的にみると、合理的なメカニズムだ。だから、こうした動きが生じるのは、当然のことである。むしろ、「なぜそれが八〇年代になるまで生じなかったか」ということのほうが不思議だ。その理由は、人為的な制約かあったからである。まず、一九六〇年代までは、為替レートが固定相場制であった。したがって、いかに輸出が増えても、それによって為替レートが変わるということはなかった。高度成長期における日本の製造業は、固定為替レートによって保護されていたのである。

2015年8月10日月曜日

「所得倍増計画」の発表

このような急速な経済成長の下では、企業の生産性も年々高まり、収益も増えた。それは当然労働者の賃金にも反映する。労働者はそうした状況の中で、賃金が年々増加するのは当たり前と考えるようになった。勤続年数とともに賃金が上昇する年功賃金はこうして日本の産業界全体にひろまり、定着するようになった。また、年々賃金のベースを上げるいわゆるベースーアップもこの時期に産業界全体に普及したのである。

このように、終身雇用や年功賃金と呼ばれるような日本的な雇用慣行は高度成長時代の急速な経済成長が背景となりまたテコとなって、大企業だけでなく中堅企業や一部の中小企業にまでひろがり、日本の社会にひとつの通念として定着したのである。

高度成長が日本の雇用慣行や賃金慣行にとっていかに重要であり、いかに深く結びついていたかについては、これからくわしく説明するが、その前に、この時代の高度経済成長が、産業、企業、人々の生活そして日本の社会全体にとっていかに大きな意味をもっていたかをふりかえっておくことにしよう。まず、高度成長とはどのような経済成長であったのかをグラフでたしかめておこう。図をみていただきたい。これは日本経済の年々の実質成長率を示したものである。

経済成長率は年々かなり変動するが、それでも、その趨勢は長期的に見ると大きくかわってきている。最近では、経済成長率はかなり低下しているが、一九七〇年代後半から一九九〇年代はじめ頃までは年率四~五%の成長率があった。これにくらべて、一九六〇年代から一九七〇年代初頭までは変動はあるとはいえ、年率で一〇%前後という非常に高い成長がつづいていた。これがよく言われる高度経済成長時代である。一九六〇年に時の池田首相は「今後一〇年間に日本の所得を倍増する」として「所得倍増計画」を発表した。この時、多くの人々はそんな事ができるかと驚いたものだったが、現実には一〇年もかからず七年間でその目標は達成されてしまった。それほど急速な「成長の時代」だった。

一九九二年、長い間現役を離れていた長嶋茂雄氏が巨人軍の監督に返り咲いた。かつてのミスタージャイアンツの現役復帰は大いに話題になったが、とりわけ中年ファンの多くは独特の感慨を抱いたに違いない。それは氏が野球界の傑出したスターであったからだけではなく、長嶋氏が名三塁手として、また四番打者として活躍したあの時代の熱い想いが、多くの中年の人々の若い時代の経験と二重映しになって思い出されるからである。

2015年7月8日水曜日

権威主義開発体制のもつ脆弱な一面

政情不安をみすえて、亡命先のアメリカから帰国したアキノがマニラ空港で暗殺されるという事件が引き金となり、マルコス政権自体が崩落するという悲劇が発生した。マルコス体制を引きついだのはアキノ夫人であり、同夫人はマルコスへのアンチテーゼとして民主的改革をつぎつぎと試みたものの、その目玉ともいうべき総合農地改革法も、この国最大のテーマである土地改革のための布石としてはなお微弱なものでしかなかった。政治不安を忌避して外国資本が参入せず、工業成長率、経済成長率ともにASEAN諸国のなかでは例外的に低い水準を低迷した。

権威主義開発体制をみずからの手で葬り去りながら、なお新しい開発体制を構築することができないでいるフィリピン経済の将来は、しばらく開けそうにない。権威主義開発体制は、経済近代化のための条件整備のままならぬ後発国が、それにもかかわらずなお急速な経済近代化をねらう以上、不可避の選択にちがいない。しかしその一方、この体制は多くの場合、自律的な経済運営のシステムに頼るよりも官僚テクノクラートの裁量に重きをおかざるをえないために、対外的条件や国内政治変動に対して意外な脆さを露呈することも少なくない。フィリピンの悲劇は、権威主義開発体制のもつそうした脆弱な一面をかいまみせたのである。

2015年6月8日月曜日

市場開放の観点

これに対し厚生省からの九九年度の補助金総額は一億三四六三万円、委託費が三三九六万円。補助金の内訳は、食品衛生指導強化費や外国人研究者の招聘事業向けなど。同社団は一九六〇年から食品衛生指導員制度を設け、全国の約六万五〇〇〇人のボランティア指導員が地域の飲食店などを回って食品の衛生管理を指導しているが、この指導経費が含まれる。

委託費は、食品の安全性を巡る相談事業や発展途上国の食品衛生行政専門家の研修事業向けなど。補助金・委託費とも、依然として既存事業向けのバラマキ型で、食品衛生管理や検査の改革に向けた新しい発想に欠ける。同社団は職員数七二人に対し役員が六九人もいる。これは全国に支部が五七あり、それぞれの支部長ポストに理事を置いているせいでもある。結果、厚生省OBは計五人と相対的に少ない。ただし、常勤理事五人のうち、最上級の副理事長・専務理事は元厚生省生活衛生局長である。

同社団は、指定検査機関として既に競争状態にあるのだから、公益法人である必要はない。営利法人化すべきであろう。JISやJAS(日本農林規格)に象徴される「規格」や「品質表示」に加え、法令や規制により定めた「検査」や「検定」「認定」、これらは「官」が所管の公益法人を動かして自らの許認可権限と利権を積み上げる「装置」になる可能性が、前述した事例から垣間見える。煩雑に過ぎる「検査」や「認定」「表示」手続きは、業者にコスト高と手間をもたらし、意欲を冷やして生産性を阻害する。「果たして本当に必要な規制かどうか、行き過ぎていないかどうか」が問われる。

他方、それは貿易相手国からみれば市場開放に逆行する非関税障壁となる。「検査」の類いは、いまはことごとく廃止もしくは簡素化し、検査機関は営利企業化する時期に来たのではないか。国はグローバルな市場開放の観点からせいぜい最小限必要な基準あるいは原則を決める、これに沿って業者が自らの責任で製品の安全性などを自己認証していくそういう形が、二一世紀にふさわしいのではないだろうか。

2015年5月13日水曜日

ローマ市民権

それでも地方分権の度合は相当に高く、これでは反ローマ蜂起の温床になるのではと思うが、それにもローマは手を打っている。地方自治体の有力者たちには、ローマ市民権を与えた。その中でも指導者格の人物には、元老院の議席まで提供している。これも、月日が過ぎてやったのではなく、戦後処理の段階で早くも実現している。相当な数のイラク人にアメリカ市民権が与えられ、そのうちの幾人かは上院の議席をもらう、と思えばよい。しかし、勝者ならではの強制も行った。有力者の子弟の中でも十代半ばから二十代半ばの年頃の若者たちは、人質として、帝国の首都ローマをはじめとする本国イタリアに連れていかれた。とは言っても、牢に入れられたり強制労働に送られるのではない。自由勝手に帰国できないという制約はあったが、その実態はフルブライトの留学生である。

しかるべき良家がホームステイ先になり、その家の子たちと机を並べて、明日の指導者に必要なことを学ぶのだ。王侯の子弟ともなるとホームステイ先も皇宮になるので、次代の帝国のトップと属州のトップは寄宿舎仲間、ということにもなるのだった。しかし、属州の指導者育成への配慮はこれだけではない。有力者の家には生れなかったがやる気のある若年層に対しては、ローマは軍隊への扉を開いている。ローマ軍の主戦力は軍団兵だが、主戦力は補助戦力とともに闘ってこそ力を発揮できる。軍団兵に志願するにはローマ市民権所有者であることが条件だったが、補助兵には属州民でも志願できた。

補助兵になり二十五年の兵役を勤めあげれば、たとえ一兵卒で終始したとしても、除隊時にはローマ市民権が与えられたのである。また、補助兵としての軍務遂行中に才能を認められると、満期を待たずにローマ市民権を与えられて軍団兵に昇格した例も少なくない。こうなると生れながらのローマ市民と同格になったということだから、その後の昇進は彼しだい。古今東西の別なく、軍隊は実力の世界なのである。愉快なのは、ローマは敗者への市民権授与に積極的であっただけでなく、その指導層ともなると、自分たちの家門名の分与にも積極的であったことだ。

ローマ人の姓名は、ガイウスーユリウスーカエサルという具合で、個人名・家門名・家族名の三つで成り立っている。そのうちの家門名を分与することをローマ人は、クリエンテス関係を結ぶと言った。クリエンテスというラテン語はクライアントの語源だが、顧客ではない。のれん分けとか親分子分の関係に近い。それで、ローマ人がイラクを占領したとすれば、サダムーブッシューフセインとか、アフメドーブレアーハシッドとかが輩出するというわけだ。家門名を与えるくらいだから、もちろんローマ市民権もすでに与え済み。そして、この傾向にさらに拍車をかけだのが、軍団あげての混血児大量生産であった。

ローマ軍団でも将官クラスでは転勤は激しかったが、百人隊長以下の兵士ともなると、入隊から退役までの二十年を同じ基地で過ごすのが普通だった。当然、基地周辺に住む属州民の女と親しくなる。満期除隊時に、退職金を手に正式結婚するのも彼女たち。生れる子たちは全員、混血ローマ人ということになる。トライアヌス帝もハドリアヌス帝も、この系統の出だった。これでは勝者と敗者の区別などは早晩消滅するしかない。だが、この敗者同化路線こそ、ローマ人の考えていた多民族国家の運営哲学であったのだ。このワーマ帝国を表わすのに私は「運命共同体」という言葉を使ったが、ローマ人の言語であるラテン語にはこの言葉はない。彼らは単に、「ファミリア」(familia)と呼んでいた。ファミリーの語源であるのは言うまでもない。

2015年4月8日水曜日

商人たちの間で布の品質を検査するために常用していた

最も倍率の高いものでは約三百倍の倍率を有していたが、この倍率は現在の顕微鏡にそれほど劣るものではないといえる。それにしても、反物商であった人物がどうして顕微鏡を作ったのであろうか。彼の特異な才能や趣味によって説明することも可能であろうが、その動機を、当時、商人たちの間で布の品質を検査するために広く使われていた虫メガネと結び付ける説がある。いずれにしても、虫メガネを常用していた商人はたくさんいたはずだが、自分で顕微鏡を作り、微生物を研究した人物は彼以外には知られていない。

しかしレーウェンフックにしても、若いときから、レンズの持っている、像を拡大して見せる性質に親しんでいなかったならば、顕微鏡を作るというようなことを考えなかったかもしれない。彼がどのようにして彼の顕微鏡に用いたレンズを作ったかは、現在でも謎とされている。レーウェンフックにとって、微生物は数多くの観察対象の一つに過ぎなかった。

彼の周囲にいた人々も、レーウェンフックが見いだした微生物が病気の原因になるのではないかなどと想像したこともなかったようである。つまりミアスマとして想像されてきた病原体と、レーウェンフックが発見した微生物とが結び付けられるための条件が、当時はまだそろっていなかったということになろう。しかし微生物の存在が、視覚を通して明らかになったことには画期的な意味があったはずである。百聞は一見に如かずということわざがあるが、レーウェンフックの成し遂げたことはまことに偉大だったと思う。

2015年3月9日月曜日

ITの帝国

新たな意味で米国の経済的優位が現出しつつあるもう一つの場、それは文字通り「情報」のビジネスである。今日では、日本の国会質疑などでもひんぱんに使われるようになった「IT」(情報技術)を次々に開発していくビジネス。

そのチャンピオンが、日本流にいえば偏差値トップのハーバード大学を、仕事が忙しいと中退し自前のビジネスを興した、マイクロソフトのビル・ゲイツである。パソコンを動かす基本ソフトウェア(OS)「Windows」によって世界の情報ビジネスの頂点に立つ、米国の、したがって世界一の大金持ち。

あまりに強大になったマイクロソフト帝国に対し、米国司法省がついに独禁法違反による摘発に乗り出し、企業分割に追い込もうとしている。

IT開発の先進ビジネスは、もちろんマイクロソフトに限られない。軽く小さくなりながら、かつての大型マシンをはるかに上回る性能へと進化を続けるコンピュータの中枢機能を、指一本ほどの大きさに詰め込んだマイクロプロセッサーでは、やはり新興企業のインテルが世界的覇権を確立した。Windowsと合わせて「ウィンテル」なる新語が、情報分野の技術体系を支配するものとしてでき上がっている。

ITはしかし、それを生み出す情報分野の巨大企業をものみ込みながら、米国経済界を急変させつつある。先述した金融ビジネスにとどまらず、すべての産業、すべての企業が情報機能を軸に変身しつつある。

情報産業界では、二〇〇〇年の年明けの、インターネット最大手AOLによるメディア界の巨人タイム・ワーナーの吸収合併が、新たな激変の端緒とされている。
二〇〇〇年三月には、ネットワーク機器メーカーの「シスコシステムズ」が、株式時価総額で世界一のマイクロソフトを抜いた。パソコンソフトから通信ネット・インフラヘの、覇者の交代を思わせる。

2015年2月9日月曜日

世界の基準はプロラタ方式

住専の損失の穴埋めはだれがどの程度すべきだったのかである。六・四兆円の穴が空いており、だれかが負担しなければ問題は解決しないことは明らかである。二度にわたる再建計画で時間を稼がざるを得なかったのも、責任論・負担論が堂々巡りをしていたことにも原因がある。この問題の難しい原因の一つは、現実的解決を図る見地に立って負担を認めれば、同時に責任をも認めたことになる点であった。責任と負担を分け合うならばともかく、責任も負担もかぶれと言い合っていたのでは答えは出ない。

時間切れとでも言うよりはかないが、われわれは後戻りできないところに追い込まれて、かなり乱暴な結論を出したと思う。結局、母体行は債権全額放棄の三・五兆円、一般行は修正母体行主義を基本に一・七兆円を負担してもらうことにした。残る一・二兆円を農林系統が負担してくれれば一応その段階での処理は終わったのだが、五三〇〇億円しか負担能力がない、との主張である。しかも、その負担も、責任を負うようなニュアンスのあるものなら一切話し合いはできない。「贈与」という性格の説明をしてほしい、との注文が付いている。

住専問題はこれ以上先延ばししないで結論を出す、というのが政府の国際的な公約にまでなっていた。十二月十日を過ぎ、もう予算編成日程の限界である。農林系統に対し、それでは無理がある、と言って仕切り直しできないところまで来ていた。この時点でまだこんな状態だったのは、われわれに戦略的な甘さがあったと言われても仕方がない。

しかしそれでは結論を先延ばしして、納得の行くまで議論を続けるべきであったかといえば、私はそうは思わない。仮に、さらに一年間を費やしたとしても、当事者同士の議論は平行線をたどり、しかもその間に損失額は膨らみ、国際的な信用にも問題を起こしていただろう。

吉冨氏の言うように「世界の基準はプロラタ方式」と割り切れるかどうか。たしかに欧米においてこの問題が処理されていたら、もっとすっきりした負担の配分がなされていたであろう。住専処理の負担区分は国際的に理解されにくいとの批判は、当時から今日に至るまで存在する。しかしこの問題の特異性をも考えてほしい。

2015年1月12日月曜日

米ロが育てたタリバン

もちろん彼は知ってやっているにちがいない。そう割り切らせているのは何か。それは「ダブルースタンダード(二重基準)」である。倫理的に内心ためらうところがあっても、現実の政治の必要には替えられず、そこで悩んではならず、懐疑的になってはならず、事にあたる者は「ダブルースタンダードに慣れるべきだ」と、フレア首相の外交問題個人顧問をつとめる元外交官のロバートークーパーは広言してはばからない(タリクーアリ「パキスタンに注意」ルーモンド ニ〇〇一年九月二〇日付より再引用)。

第二次世界大戦後の一九四七年イギリスがインド亜大陸から引きあげると、米ソ両国がアフガニスタン援助合戦をはしめた。援助は、武器供与のほかに、病院や発電所や空港などのインフラストラクチャーの建設、そして留学生の招待にまでわたった。そうした留学生のなかに、のちのアミン大統領がいた。

私のひとりは、六〇年代の初めコロンビア大学のキャンパスで彼をしばしば見かけた。アメリカ政府の学生招待作戦がアフガユスタンにまで及び、そのひとりが彼で名前はアミンということを、キャンパスで知らぬ者はいなかった。そのアミンが共産主義政権の大統領になったというニュースは、大学の同窓会などでもひとしきり話題になった。

ソビエトにとって、親ソ的であればアフガエスタンがどんな体制であろうがかまわなかつた。ところが、六〇年代の半ばになって人民民主党が結成された。ソビエト留学帰りの青年将校、教師、その教え子たちが、マルクスーレーニン主義に魅せられて、およそアフガニスタンの実情にそぐわない改革を夢想した。

都市部のごく限られた層を基盤とする組織だったが、七三年ザヘルーシャー国王が外遊中に、国王の従弟で首相のダウト王子がクーデタを起こした際に協力し、王子を大統領とする共和国を発足させた。ザヘルーシャー国王はそのままイタリアへ亡命した。最近タリバン後の統治の中心としてかつがれているのは、この元国王である。