2015年1月12日月曜日

米ロが育てたタリバン

もちろん彼は知ってやっているにちがいない。そう割り切らせているのは何か。それは「ダブルースタンダード(二重基準)」である。倫理的に内心ためらうところがあっても、現実の政治の必要には替えられず、そこで悩んではならず、懐疑的になってはならず、事にあたる者は「ダブルースタンダードに慣れるべきだ」と、フレア首相の外交問題個人顧問をつとめる元外交官のロバートークーパーは広言してはばからない(タリクーアリ「パキスタンに注意」ルーモンド ニ〇〇一年九月二〇日付より再引用)。

第二次世界大戦後の一九四七年イギリスがインド亜大陸から引きあげると、米ソ両国がアフガニスタン援助合戦をはしめた。援助は、武器供与のほかに、病院や発電所や空港などのインフラストラクチャーの建設、そして留学生の招待にまでわたった。そうした留学生のなかに、のちのアミン大統領がいた。

私のひとりは、六〇年代の初めコロンビア大学のキャンパスで彼をしばしば見かけた。アメリカ政府の学生招待作戦がアフガユスタンにまで及び、そのひとりが彼で名前はアミンということを、キャンパスで知らぬ者はいなかった。そのアミンが共産主義政権の大統領になったというニュースは、大学の同窓会などでもひとしきり話題になった。

ソビエトにとって、親ソ的であればアフガエスタンがどんな体制であろうがかまわなかつた。ところが、六〇年代の半ばになって人民民主党が結成された。ソビエト留学帰りの青年将校、教師、その教え子たちが、マルクスーレーニン主義に魅せられて、およそアフガニスタンの実情にそぐわない改革を夢想した。

都市部のごく限られた層を基盤とする組織だったが、七三年ザヘルーシャー国王が外遊中に、国王の従弟で首相のダウト王子がクーデタを起こした際に協力し、王子を大統領とする共和国を発足させた。ザヘルーシャー国王はそのままイタリアへ亡命した。最近タリバン後の統治の中心としてかつがれているのは、この元国王である。