2014年5月23日金曜日

降圧剤投与か開始

脳梗塞後も喫煙と大量飲酒(男性・初診時五七歳)Pさん(身長一六五センチ、体重七四キロ)は、一九八二年頃(五〇歳)から血圧か高い(六〇/一〇〇前後)と言われていましたが、無症状なので放置しました。外食が多くビールは二本、タバコを二〇本吸い、運動らしきことは全くしない、というのか平均的生活でした。八九年九月(五七歳)、胃の不快感があり当科を受診、胃腸薬の投薬を受けました。この時高血圧(一六八/一〇四)も治療するよう指導されました。

一二月血圧一七二/一一〇、階段を上る時の息切れがひどいと訴え、降圧剤投与か開始されました。九〇年四月朝、ろれつが回らない、言葉の端切れか悪くなったのに気がつき、翌日当科受診、血圧一九二/一一四、頭部CT検査では異常所見がなかったのですが、脳梗塞の疑いで入院となりました。二日後に頭部CTを再検査、左脳梗塞と診断しました。退院後禁酒。禁煙。しかし三ヶ月後には酒、タバコともに再開。九一年七月二四日、再びろれつが回らなくなり、右下肢に脱力感が出現し二回目の入院。

頭部CTで新しい左脳梗塞と診断しました。その後五年間は、降圧剤と血栓症予防のための抗凝固剤投与により安定した状態が続きました。当然のごとくタバコ、酒ともにやりはじめ、だんだん量が増えました。九六年五月頃より坂を上る時に胸が苦しいと訴えるようになりました。同年八月に三回目の入院、冠状動脈造影検査を行ないました。冠状動脈の末梢には高度の狭窄があるが外科的治療、PTCAの必要まではなく、投薬にて経過観察をすべきである、との診断でした。

九八年三月、起床時から言葉か出にくい、頭痛がすると訴え四回目の入院、MRI検査で多発性脳梗塞と診断しました。九九年二月(六七歳)、家人から、意味不明な言動かあり、右顔面に麻庫があるとの連絡があり、救急車で五回目の入院、MRI検査で脳出血と診断しました。二週間程軽い意識傷害か続きましたが、幸い完全に回復し退院しました。この症例は高血圧を放置していただけでなく、脳梗塞の発症後も喫煙と大量飲酒を続けていました。このような悪い生活習慣が続くと、脳血管に高度な病変か多発するばかりでなく、冠状動脈にも重大な病変が起こり、生命にかかわるような事態に至ることを証明しています。

2014年5月2日金曜日

しばしば無口になる

「私」は「自分」を直接には知らない、と書いている。だが読者は、「自分」とは「私」なり、つまり、手記の主人公「自分」は、「私」すなわち太宰治だと承知でこの小説を読む。太宰はもちろん、それを百も承知で、直接には知らない狂人の手記のかたちにしている。大岡昇平さん(大岡さんには生前誓咳に接しているので、さんづけで書く。)も同工の作法で「野火」という「私」が主人公の作品を書いている。この手記を書いたのは、東京郊外の精神病院に入院している患者というかたちにしている。この「私」は、、いわゆる狂人ではない、軽度の記憶喪失者である。

「私」は、兵上としてフィリピンの山中を放浪していて、ある時期記憶を失う。記憶を取り戻したときには、米軍の野戦病院に収容されていた。その後「私」は帰国して精神病院に入院して、医師に薦められて手記を書く。「私」は、山中放浪から米軍に収容されるいっときの喪失期間以前と以後については記憶を喪失していない。だから、作中の医師の言うように、「小説みたい」な手記が、みごとに書けるわけだが、それにしても、太宰治にしろ、大岡さんにしろ、「私」が主人公の小説を書くのに、なぜ、狂人だの、記憶喪失患者だのを登場させてひねってみせなければならなかったのだろうか。

「私」が主人公の小説と言っても、もちろん小説中の「私」は、そのまま作者そのものではない。私は、ひねったりはいたしません、一途に、ありのままに、正直に自分を語ってみようと思います、そういう気持姿勢で書いた私小説の「私」も、それがそのまま作者であるということは、ありえない。けれども作者には、できるだけ、ひねりや作意を押えようと試みる者あり、一ひねりも二ひねりもした表現をしようとする者あり、である。

太宰治や大岡昇平さんのひねりは、そうすることの内底には、作者の自身のテレとの格闘もあったのではないか、と私は想像する。 大岡昇平さんも、恥の意識過剰の人だが、太宰治ぐらい、それを言葉にも出し、ヒイヒイと愚痴っぽく、派手に書いた作家はいない。それをろくに□に出さず、しかし、過剰に意識している人もいるだろう。助平は、しばしば無口になりがちである。

うっかり□にすると、その言葉だけで興奮してしまう自分を知っていて、それがこわいので、せめて寡黙に自分を閉じ込めてバランスを取るのである。その逆の方法もある。助平は、やらだ毒舌に、助平な言葉を口にし、助平なことを思い続ければ、不感症になる。そのようにして助平から解放される。恥に関して、太宰治は、後者の方法で、逃げ出そうとしたのである。