2015年5月13日水曜日

ローマ市民権

それでも地方分権の度合は相当に高く、これでは反ローマ蜂起の温床になるのではと思うが、それにもローマは手を打っている。地方自治体の有力者たちには、ローマ市民権を与えた。その中でも指導者格の人物には、元老院の議席まで提供している。これも、月日が過ぎてやったのではなく、戦後処理の段階で早くも実現している。相当な数のイラク人にアメリカ市民権が与えられ、そのうちの幾人かは上院の議席をもらう、と思えばよい。しかし、勝者ならではの強制も行った。有力者の子弟の中でも十代半ばから二十代半ばの年頃の若者たちは、人質として、帝国の首都ローマをはじめとする本国イタリアに連れていかれた。とは言っても、牢に入れられたり強制労働に送られるのではない。自由勝手に帰国できないという制約はあったが、その実態はフルブライトの留学生である。

しかるべき良家がホームステイ先になり、その家の子たちと机を並べて、明日の指導者に必要なことを学ぶのだ。王侯の子弟ともなるとホームステイ先も皇宮になるので、次代の帝国のトップと属州のトップは寄宿舎仲間、ということにもなるのだった。しかし、属州の指導者育成への配慮はこれだけではない。有力者の家には生れなかったがやる気のある若年層に対しては、ローマは軍隊への扉を開いている。ローマ軍の主戦力は軍団兵だが、主戦力は補助戦力とともに闘ってこそ力を発揮できる。軍団兵に志願するにはローマ市民権所有者であることが条件だったが、補助兵には属州民でも志願できた。

補助兵になり二十五年の兵役を勤めあげれば、たとえ一兵卒で終始したとしても、除隊時にはローマ市民権が与えられたのである。また、補助兵としての軍務遂行中に才能を認められると、満期を待たずにローマ市民権を与えられて軍団兵に昇格した例も少なくない。こうなると生れながらのローマ市民と同格になったということだから、その後の昇進は彼しだい。古今東西の別なく、軍隊は実力の世界なのである。愉快なのは、ローマは敗者への市民権授与に積極的であっただけでなく、その指導層ともなると、自分たちの家門名の分与にも積極的であったことだ。

ローマ人の姓名は、ガイウスーユリウスーカエサルという具合で、個人名・家門名・家族名の三つで成り立っている。そのうちの家門名を分与することをローマ人は、クリエンテス関係を結ぶと言った。クリエンテスというラテン語はクライアントの語源だが、顧客ではない。のれん分けとか親分子分の関係に近い。それで、ローマ人がイラクを占領したとすれば、サダムーブッシューフセインとか、アフメドーブレアーハシッドとかが輩出するというわけだ。家門名を与えるくらいだから、もちろんローマ市民権もすでに与え済み。そして、この傾向にさらに拍車をかけだのが、軍団あげての混血児大量生産であった。

ローマ軍団でも将官クラスでは転勤は激しかったが、百人隊長以下の兵士ともなると、入隊から退役までの二十年を同じ基地で過ごすのが普通だった。当然、基地周辺に住む属州民の女と親しくなる。満期除隊時に、退職金を手に正式結婚するのも彼女たち。生れる子たちは全員、混血ローマ人ということになる。トライアヌス帝もハドリアヌス帝も、この系統の出だった。これでは勝者と敗者の区別などは早晩消滅するしかない。だが、この敗者同化路線こそ、ローマ人の考えていた多民族国家の運営哲学であったのだ。このワーマ帝国を表わすのに私は「運命共同体」という言葉を使ったが、ローマ人の言語であるラテン語にはこの言葉はない。彼らは単に、「ファミリア」(familia)と呼んでいた。ファミリーの語源であるのは言うまでもない。