2015年10月8日木曜日

アジア通貨危機

われわれは、いったいどのような精神態度をもって世界を認識してきたのだろうか。大正デモクラシーから戦後に至るまで、マルクス主義が多くの人びとの心を捉えたのは、資本主義という総体を丸ごと否定してみせたマルクスの手法が、明治期以降抱き続けたわれわれ日本人の西欧への劣等感を吹き飛ばしてくれるものだったからかもしれない。

冷戦崩壊でマルクス理論の魅力が衰えたとはいえ、アメリカ流民主主義に世界が収斂しつつあるという論理に、世界が納得したのかどうかは疑問である。むしろ、政治イデオロギーの終焉に、民族対立の激化を悲観的に認識したサミュエルーハンチントンの『文明の衝突』や、西欧にとっての非西欧の異質性を強調する、エドワードーサイードの『オリエンタリズム』が話題を集め、非西欧のアジアやイスラムが、アカデミズムでもジャーナリズムでも関心を惹きつけている。

そのような、手探りを続ける知的状況は、現実の厳しい政治経済事情を反映するものである。ベルリンの壁の崩壊が、市場メカニズムの効率性を信奉するシカゴ学派の勝利を認識させる一方で、旧ユーゴスラヴィアでは、民族と宗教との骨肉相争う内戦(ユーゴスラヴィア継承戦争)を生んだ。旧ソ連邦解体は、イスラム勢力の台頭という新たな世界地図を現出し、注目を浴びた「アジアの奇跡」は「アジア通貨危機」に逆転した。

一方の日本はどうだろうか。話題を集めた半藤一利著『ノモンハンの夏』は、ノモンハンでの戦略失敗を認めず、無責任を決め込んだ旧陸軍首脳を描いたものである。これは、旧満州に守るべき民衆を置き去りにして、自らはさっさと逃げ帰った旧日本帝国陸軍の体質につながっていく。そして、同時に、権限だけに固執しながら、責任感からは遠いという意味で、今日の日本の、大蔵エリート官僚を彷彿とさせるものがある。

現在、日本社会はすっかり自信や余裕を失っている。一流企業ですら倒産する可能性におびえ、雇用不安が高まり、人びとは消費を手控え、その結果ますます不況が蔓延するという悪循環に陥っている。個々の企業コストを削減するために、多くの企業が「人減らし」を行えば行うほど、社会全体としては消費が低迷し、その結果ますます不況が長引くという、いわば「合成の誤謬」が起きている。

そうこうするうちに、アジア通貨危機でも日本の金融システム不安においても、主要な政策シナリオを書くのは、自国の政治家や官僚諸氏よりも、アメリカの政治家やアメリカのエコノミスト、あるいはその強い影響下にあるIMF(国際通貨基金)や世界銀行の国際官僚といった状況が続いている。九八年六月、日本にやってきた米財務副長官のローレンスーサマーズは政治家と直談判して、政策を講じさせた。さらに九八年一〇月にワシントンで開かれたG7(七力国蔵相・中央銀行総裁会議)の共同声明でも、その半分が日本問題で占められた。アメリカをはじめ海外に政策を指導してもらう羽目に陥った日本の「屈辱」をいったいどう考えるべきだろうか。