2014年7月19日土曜日

通貨価値の番人と信用秩序の番人

相場変動が急激で介入を要する場合のうち、国内景況の過熱が主因で経常収支の赤字が増大し、円安が急速に進行している場合に、外貨の売介入(円貨の買介入)を行うことは、円相場の下落を防ぐと同時に、国内の過剰流動性を吸収することになるから、円の対外価値の維持と対内価値の維持との間に矛盾が生じない。しかし、国内にインフレの懸念がないわけではないのに円高が過度に進行した場合、外貨の買介入(円貨の売介入)を行って、円の対外価値の安定を優先すべきか、それとも介入を差し控えて円の対内価値の安定を重視すべきかは、その時の状況にもよるが、為替相場政策上の、また金融政策上の難問である。

最近、日銀首脳部の発言の中で、「為替相場の変動によっては金融政策は左右されない」「為替相場の変動にぱもっぱら介入で対処する」という趣旨が繰り返されているが、右のごとく、中央銀行は為替相場の変動によって影響されるだげでなく、介入でこれに応じれば、それ自体金融市場で一つの操作を実施したと同じことになる。右の発言は、事実の誤認か、相場に影響されたくないという願望の表明か、そのいずれかであろう。

ドイツやスイスの中央銀行は、通貨価値の番人であるが、建前上は信用秩序の番人ではないといわれている。したがって、銀行監督の役割もなく、「最終の貸手」でもない。七四年のヘルシュタット事件のごとく、民間金融機関を支援しないこともありうるが、反面、通貨価値の番人として中央銀行の独立性を誇っているようにもみえる。

これに反し、わが国や英米の中央銀行は、通貨価値の番人と信用秩序の番人との二つの役割を有している。イングランド銀行の場合、九四年の機構改革で、行内がマネタリースタビリティ(通貨価値の安定)担当の部門とファイナソシャルースタビリティ(信用秩序の安定)担当の部門に二分されている。しかし、極端な場合、この二つの機能は相矛盾しうる。たとえば、通貨価値安定のためあまりにきびしい金融引締策を実行し、これによって民間金融機関に困難が生じた場合、あまりにもしばしば「最終の貸手」としてこれを支援し、信用秩序の維持に努めると、金融が過度に緩和し、通貨価値の番人としての役割が損なわれる可能性がありうる。

この矛盾を回避するためには、金融政策面では、緩和の場合も引締めの場合も早め早めに機動的な政策運営を行って、インフレの山、デフレの谷を大きくしないように努めること、また銀行監督面では、緩和時に経営が放漫化して引締時に困難が生ずることがないよう金融機関を指導することが必要である。

2014年7月5日土曜日

冷戦型思考との決別

何度か指摘してきたように、日本経済はさながら「モラルなき資本主義」といった様相を呈している。不良債権問題における経営者のモラルハザード、日銀によるCP引受け、あるいは相変わらすのバラマキ型公共事業政策の継続と約二九兆円にまで膨らんだ地方交付税特別会計の「隠れ借金」、いずれも本格的な景気回復がなければ、日本の経済システムの根幹を蝕んでゆきかねない。本源的生産要素市場におけるセーフティーネットの「解体」を放置していることが、こうした状況を作り出す原因となっている。

冷戦型の二分法的思考の枠組みから抜け出られずに、規制緩和と政府介入、あるいは「小さな政府」と「大きな政府」の間で、ただ振り子のように振れているだけでは、泥沼にはまってゆくだけだろう。本源的生産要素市場の安定性を取り戻すには、何よりも将来不安を取り除き。崩れつつある制度の信認を回復させることが優先されねばならない。

セーフティーネットの再構築を起点とする制度改革が成功するかどうかは、いかにして歴史的な公共的課題に対応して、人々の自己決定権を高めることができるか否かという点にかかっている。もちろん市場原理主義はこの条件を満たすことはできない。規制緩和や「小さな政府」を目指す政策を追求すればするほど、人々は自己決定の領域を失ってしまうからである。強調したように、〈協力の領域〉が組み込まれてはじめて〈競争の領域〉も安定的に機能する。言い換えるなら、人々が自己決定権を確保するには、社会的共同性に基づく制度やルールが不可欠であることを意味する。

つまり、セーフティーネットと連結する形で社会的に公正な制度やルールが存在して、はじめて人間は、それを目安に自分の人生設計=主体的選択をなしうる。そのためには、市場や社会の歴史的変化に応じて、絶えず自己決定権を高めるために社会的共同性に基づいてセーフティーネットを張り替え、それに連動して制度やルールを変更してゆかねばならない。

もちろん、こうした考え方は明確に中央計画型社会主義も拒絶する。理由は簡単だ。それが、権力の肥大化によって人々の自己決定権を抑圧する体系だからである。つまり、セーフティーネットに連結する制度改革という知的戦略は、完全競争状態をユートピアとする市場原理主義でもなく、市場の廃絶をユートピアとする中央計画型社会主義でもない。