2015年7月8日水曜日

権威主義開発体制のもつ脆弱な一面

政情不安をみすえて、亡命先のアメリカから帰国したアキノがマニラ空港で暗殺されるという事件が引き金となり、マルコス政権自体が崩落するという悲劇が発生した。マルコス体制を引きついだのはアキノ夫人であり、同夫人はマルコスへのアンチテーゼとして民主的改革をつぎつぎと試みたものの、その目玉ともいうべき総合農地改革法も、この国最大のテーマである土地改革のための布石としてはなお微弱なものでしかなかった。政治不安を忌避して外国資本が参入せず、工業成長率、経済成長率ともにASEAN諸国のなかでは例外的に低い水準を低迷した。

権威主義開発体制をみずからの手で葬り去りながら、なお新しい開発体制を構築することができないでいるフィリピン経済の将来は、しばらく開けそうにない。権威主義開発体制は、経済近代化のための条件整備のままならぬ後発国が、それにもかかわらずなお急速な経済近代化をねらう以上、不可避の選択にちがいない。しかしその一方、この体制は多くの場合、自律的な経済運営のシステムに頼るよりも官僚テクノクラートの裁量に重きをおかざるをえないために、対外的条件や国内政治変動に対して意外な脆さを露呈することも少なくない。フィリピンの悲劇は、権威主義開発体制のもつそうした脆弱な一面をかいまみせたのである。