2015年2月9日月曜日

世界の基準はプロラタ方式

住専の損失の穴埋めはだれがどの程度すべきだったのかである。六・四兆円の穴が空いており、だれかが負担しなければ問題は解決しないことは明らかである。二度にわたる再建計画で時間を稼がざるを得なかったのも、責任論・負担論が堂々巡りをしていたことにも原因がある。この問題の難しい原因の一つは、現実的解決を図る見地に立って負担を認めれば、同時に責任をも認めたことになる点であった。責任と負担を分け合うならばともかく、責任も負担もかぶれと言い合っていたのでは答えは出ない。

時間切れとでも言うよりはかないが、われわれは後戻りできないところに追い込まれて、かなり乱暴な結論を出したと思う。結局、母体行は債権全額放棄の三・五兆円、一般行は修正母体行主義を基本に一・七兆円を負担してもらうことにした。残る一・二兆円を農林系統が負担してくれれば一応その段階での処理は終わったのだが、五三〇〇億円しか負担能力がない、との主張である。しかも、その負担も、責任を負うようなニュアンスのあるものなら一切話し合いはできない。「贈与」という性格の説明をしてほしい、との注文が付いている。

住専問題はこれ以上先延ばししないで結論を出す、というのが政府の国際的な公約にまでなっていた。十二月十日を過ぎ、もう予算編成日程の限界である。農林系統に対し、それでは無理がある、と言って仕切り直しできないところまで来ていた。この時点でまだこんな状態だったのは、われわれに戦略的な甘さがあったと言われても仕方がない。

しかしそれでは結論を先延ばしして、納得の行くまで議論を続けるべきであったかといえば、私はそうは思わない。仮に、さらに一年間を費やしたとしても、当事者同士の議論は平行線をたどり、しかもその間に損失額は膨らみ、国際的な信用にも問題を起こしていただろう。

吉冨氏の言うように「世界の基準はプロラタ方式」と割り切れるかどうか。たしかに欧米においてこの問題が処理されていたら、もっとすっきりした負担の配分がなされていたであろう。住専処理の負担区分は国際的に理解されにくいとの批判は、当時から今日に至るまで存在する。しかしこの問題の特異性をも考えてほしい。