2016年4月8日金曜日

「共産党一党支配の打倒」

それではヴェトナムはどうなっているのであろうか。さまざまな角度から検討してきたように、中国によく似た「共産党による開発独裁体制」の路線を追っているように思われる。「経済成長」を錦の御旗にして、すべての矛盾を先延ばしにする戦術で、共産党の一党支配を維持しようとする戦略である。しかし、この路線に本当の将来展望があるのだろうか。「経済成長」を達成しながら、どのような価値を世界に訴えかける体制を構築するのか、その内実が問われている。しかし、中国の現政権にもヴェトナムの現政権にも答えは用意されていない。とまれ「経済成長」というスローガンだけで、経済成長達成後に、どのような価値を実現するのかについては白紙になっているのが現状であろう。それでは、大多数の国民が幸福になる体制としては責任放棄であろう。

それでは「共産党一党支配の打倒」を掲げて反共革命を起こせば、事は解決するのだろうか。それは二一世紀のグローバル化され情報化された今日の社会では、人命や機械設備や情報システム等の損失を考えると、失うものが大きすぎてより一層不可能であろう。また、中国にしてもヴェトナムにしても、「民族解放」と「独立国家の樹立」という歴史的事業に対して共産党がなした貢献は否定できるものではない。共産党が政権を掌握している正統性は歴史的に存在しているのだ。したがって、コスト・パフォーマンスの観点からも、実行可能性の観点から見ても、それは単なる仮説の一つに過ぎず、夢想の域を出ない考え方であろう。では、どのような軟着陸のシナリオが考えられるか。すなわち、平和的に内側から体制変革を進める手立てと筋道である。

現在までの政治学者の体制移行論の多くは、「経済成長が発展すると都市中間層が台頭し、その中間層が民主化推進の母体になる」という理論を採用している。韓国、台湾、タイ等権威主義体制から民主主義体制への移行は、この道程を辿ったといわれている。他方、シンガポールのような港市国家やチュニジアのような「レンティア国家」(石油収入などを財源とする金利生活国家)では、たとえ中間層が台頭しても、必ずしも民主化を求める母体とならず、逆に白己利益の保存のために権威主義体制擁護の母体になるケースもあると報告されている。「権威主義体制を近代化する」(福富満久)方式である。したがって、議論の中心は、民主化を担うはずの都市中間層が階層として発展してきているのか、そしてその発展してきた中間層の政治意識が民主化を指向するのかどうかの分析にあてられている。

2016年3月8日火曜日

隣人の親切心から裁判へ

「ある隣人訴訟事件」とは、幼児を隣人に預けていた間に、その幼児が団地の近くにある溜め池で溺死し、親が隣人夫婦や国などを訴えた事件です。一審の津地方裁判所は、幼児を預かった隣人夫婦に過失があったとして合計五百万円余りの賠償支払を命じる一方、国や三重県などに溜め池の管理責任はないという判決を出しました。

このケースでも、善意から子供を預かった「ふつうの人」の責任追及だけは厳しく行われたわけですが、特筆すべきはその後の展開でした。この一審判決をマスコミは、「近所の善意に厳しい判決」「隣人の好意につらい裁き」などという一方的な論調で報道しました。

その結果、全国から原告(溺死した幼児の親)に非難中傷の嫌がらせかおり、その親の子供はいじめを受け、夫は会社も辞めさせられるなど社会的に厳しい制裁を受けて、原告は訴え自体を取り下げざるを得なくなりました(判決が出た後でも、相手の同意を得て訴えを取り下げることができます)。

この段階では、負けた方、過失があったと裁判所に認定された側か非難を受けたのではないのです。裁判で勝った側かそういう非難を浴びたのです。ちなみに、子供を交通事故などで死亡させた場合だと、賠償金の額はこのケース程度では済みません。この事件で裁判官は精一杯、被告夫婦に有利に解釈して、額をかなり抑えました。

しかも、通常の金銭支払いを命ずる判決ならば、第一審の判決段階で仮執行できる旨の文言が付くことも多いのですが、それもこの判決には付きませんでした。つまり、判決は出たけれども、原告は一銭も手にすべくもなかったのです。