2014年10月8日水曜日

二一世紀を祝う空騒ぎ

そんな連中を黙らせるためには、また、このいやな「世界」を渡世していくためには、残念ながら、まことに残念ながら、英語でしゃべるほか手はないのである。「ニューズウィーク」の記者は論外であるにしろ、ニュアンスというものの稀薄な汎用的言語である英語では、ニュアンスに満ち満ちた相対性を重視した日本語の「すいませーん」は、やっぱり「アイーアムーソーリー」にしか翻訳しにくいのである。逆にいうと、それほど簡略化された言語だから世界に流通したのである。むろん日本人がしゃべる英語はアメリカ語でもイングランド語でもある必要はない。そうでない方がもっとよい。日本英語でよいのだが、船橋洋一氏の「英語第二公用語論」も、くどいようだが残念ながら、説得力を持つのである。

帰国すると今度はパラリンピックをやっていた。テレビ好きの私は、ついこれも見てしまい、感動した。しかし、パラリンピックでもドーピングをする選手がいたと聞いたときは唖然とした。暗漕たる気分になったというべきだろう。何のためのパラリンピックか。その動機は「ナショナループレッシャー」ではなかろう。自分のコマーシャルーキャラクターとしての価値を高めたいなど、人生そのもののプレッシャーだろう。それが世界の多数派なのだとしたら、いっそオリンピックはドーピング解禁にすればよい。自分の命を張って競技するのだから、おもしろくないはずはない。記録だってまだまだ伸びる。私は本気でいっている。ドーピックあの強欲そうな、身もふたもないサマランチならほんとうにやりかねない。

「二一世紀を祝う空騒ぎは意外に少なくてよかった。昨年は「ミレニアム」だ、コンビュータの「二〇〇〇年問題」だと、愚者の箱となり果てた感のある民放テレビを筆頭に、うるさく騒ぎたてて不快だった。さすがに二年つづきでは疲れたのだろう。「ミレニアム」などという単語は、おおかたの日本人はそれまで知らなかったのである。だいたい非キリスト教徒には関係がない。問題は、二十一世紀がいつはじまったかということである。二十世紀がいつはじまり、いつ終ったかということである。二十世紀の第一年は明治三十四年だが、普通の日本人にとってそんなことはどうでもよかった。ただの明治三十四年にすぎなかった。それどころではなかった。

その前年、落日の清国に義和団事件が起こった。北京は扶清主義の「拳匪」(ボクサーと欧米では呼ばれた)に包囲され、城内にとり残された諸外国人は一時惨死を覚悟したが、柴五郎中佐指揮下の日本軍をはじめとする八力国連合軍がこれを救出した。一方清露国境では、アムール北岸の都市ブラゴベシチェンスクに義和団影響下の清国軍が河越しに散発的な砲撃を加えた。ロシア軍はたちまち撃退したが、同時にブラゴベシチェンスク市内に在住する中国人商人や使用人を、文字通り皆殺しにして死体をアムールに流した。その数三千とも五千ともいわれた。それまでもロシアの東進圧力と日本海への野心に強い疑惑の念を抱いていた日本人は、この事件で恐怖心と危機意識をいやがうえにも高め、対露戦やむなしという悲壮な決意を固めた。世紀末や新世紀どころではなかったとはそういうことである。

明治三十三年晩秋、ロンドンに達した夏目漱石は、排煙の厚くたちこめた空に、黄色くにじむいびつな太陽を見た。寒気のなかを足早に歩み去る、かたちもさだかではないひとびとの影を見た。一月、ビクトリア女王が没した。漱石は弔意を表するために黒いネクタイを買いに行った。日記に漱石は英文でつぎのように書いた。「偉大な女王は沈みゆく」「ネクタイを包みながら店員が、なにやら不吉な感じで二十世紀がはじまりましたねといった」漱石はロンドンでは大学に籍を置かず、自学することにした。大学という郊外の閉鎖空間ではなく、市塵中で生きることを望んだ。ただ、火曜日ごとに個人教授を受けた。先生はアイルランド人の老いたシェークスピア学者で、女中とともにべー力ー街の四階にひっそりと住んでいた。漱石は、そのクレイグという名の老学究や、転々とした下宿屋の女主人たちの表情に、家族が分解し去ったあとに露出した限りない「さびしさ」を見た。