2013年11月5日火曜日

突然の退位宣言、新憲法制定へ

国王の提案で、閣僚会議の議長すなわち政府首脳には、国会選挙で最高得票を得た大臣が任期一年で就任し、以後輪番制で得票数上位の大臣が就任することになった。大臣の任期は五年で、更新には国会の過半数の承認が必要とされる。七月二九日、一ヵ月の長きにおよんだ歴史的な第七六回国会は幕を閉じた。ティンプの熱い夏であった。これは、当時はその機は熟しておらず、時期尚早との見方が強かったが、立憲君主制の下での政党議会制民主主義への移行という長い道のりの出発点であった。そして、もはや後戻りはできず、一年半後の二〇〇一年には、立憲君主制の下での選挙に基づく二政党制議会、国王の六五歳退位を柱とする憲法の起草が開始された。

二〇〇三年に、一九九八年に初めて選出された大臣の五年の任期が切れ、かれらの業績が国会で審議され、全員の任期が更新された。加えて新たに四人の大臣が選出され、一〇大臣一〇省体制となった。この時点で、国王六五歳定年制、国会の四分の三、国民投票の過半数により国王解任といった非常に特色のある項目を含む新憲法の草案がほぼできあがり、全国民に配布された。国民の絶対多数は、こうした新憲法の必要性を認めず、王制の現状維持・継続を願った。それにたいして国王は、以前から繰り返し説いてきた世襲王制に内在する危険を改めて指摘し、王制の下ですべてが順調に運んでいる今こそ、ブータンの将来のいっそうの繁栄と安全のために新憲法、新体制へ移行することが必要であると反論した。

そして国民を説得するために、国王は各県に赴き、自ら新憲法を説明し、国民の質問に答えることにした。国王の決意は固く、初めての国政選挙の準備のために、選挙委員会が設置され、準備は着々と進められた。そして、二〇〇四年二一月一七日の建国記念日に、東ブータンのタシガン県に赴いた国王は、新憲法発布、新政府発足の暁に、皇太子に王位を譲位すると何の予告もなく表明した。この国王の声明をゾンカ語から東ブータンのシヤルチョプカ語に翻訳する役目を仰せつかっていた県知事は、そのあまりの唐突さ、内容の重大さに驚き、悲しみのあまり涙ぐんでしばしの間、通訳ができなかった。

ようやく国王の声明がシャルチョプカ語に翻訳されると、今度は出席していた聴衆は、翻訳間違いではないかと耳を疑った。県知事が、国王はまさしく譲位の意向を表明されたと繰り返しても、聴衆は信じることができなかった。新憲法に盛り込まれることになっている国王六五歳定年制すら削除を願っていた国民にとって、四九歳の国王が譲位を口にするなど、およそ信ずることができなかった。好ましくない事態を前にして、それを回避する対処策も尽き、もはや避けられそうになくなった時、「そのことを考えないようにすれば、ひょっとしてそのことは起こらなくなるかもしれない」と思うのが、ブータン人の田舎者気質の最後の対処策であり、楽観的知恵である。

それ故にブータン人は全員、国王譲位は先のこととして、真剣に受け止めようとしなかった。というよりは、それを現実のものとして受け止めたくなかった。第四代国王譲位は、即第五代国王即位であり、国王の交代にすぎないということが自明であっても、第四代国王なきブータンは考えることすらできなかった。それほど国民は、第四代国王の指導力に依存していたし、国王を慕っていた。いずれにせよ二〇〇五年末から、国王は自ら全国の各県を回り、国民の意見を聴き、疑問点を晴らし、新憲法により、立憲君主制の下での議会制民主主義で、国民が自らの運命を決定する主権者となる必要性を説明し始めた。併行して、立憲君主制の下での政党議会制民主主義体制に向けて、新憲法、選挙法、政党法などの法整備が進められた。